杏子とOLの出席簿

20代女子ふたりの背伸びをしない交換日記。

街で駆けるわたしを見つけてよ【あしきょう 遅れた宿題提出】

by 杏子

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和光堂の時計が5時を知らせたまさにそのとき、ワタシは銀座四丁目の交差点を渡っていた。夜の始まり、ネオンが映える。12月の5時の中央通りなんて、1年でもっとも輝いて見えるときかもしれない。

 

日産の側から歩いて高島屋の前に着いたとき、その玄関で人を待っている彼の姿を目にする。ワタシもよく知っている、ジンジャー色のウィンドウペンのツイードのコート。

 

どきっとしてとっさに人混みに紛れた反面、声をかけたい衝動に駆られて数歩戻ったけれど、ワタシはやっぱり声をかけずに街に溶けた。–––––どのみち1時間後に会うのだから。

 

会ったときに言って驚かそう、と思って、ワタシは二丁目の伊東屋へ駆ける。買い物を済ませてから、化粧室で真っ赤なリップを引いた。

 

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今彼には付き合っている人がいる。その事実を知ったときワタシは異国の地で、ただただ孤独を胸に抱いた。その事実を自分の口で言う羽目になった彼だから、さすがにワタシを傷つけたことは自覚している。

 

もう彼を解放すべきだとも思った。彼から自分を解放すべきだとも思った。でも冬の一時帰国を前に浮かんだのは、どんな形でもいいから会いたい、という気持ちだった。

 

共通の友人に根回しをして、とにかく彼の予定を聞き出して、複数人で同窓会をしようと誘い出してくれ、と懇願した。友人がワタシのことを伏せて彼に同窓会を発案したら、意外にも彼がさくさくと店の予約まで済ませていた。

 

あとからワタシを誘いたいと告げられた彼は友人に「彼女が僕に会いたいと思うかどうか次第だけど、いいんじゃない」と返したらしい。ばかね、全てはワタシがあなたに会うために仕組んだことよ。

 

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不思議だったのは、不意に、昔の同級生が連絡をくれたこと。卒業してから会ったことがなかった彼だけれども、帰国して早々に組んだランチの2時間、飽きることなく楽しくおしゃべりすることができた。

 

きっと彼はワタシより楽しんでくれたのかもしれない。お店から駅への道すがら、か細い声で緊張気味に、今度うちに遊びに来ます?と聞こえた気がする。

 

こういう人、彼氏だったら、いいんだろうな。それは心から思った。だからそのままそうLINEしたら、彼は「嬉しい! その言葉スクショした!」と言ってくる。素直な子なんだなと思った。

 

そう、殿とワタシの、ハイコンテクストな皮肉の効いた会話とは違う、ストレートでわかりやすい表現。殿との再会を控えて、正直動揺した。

 

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OLちゃんとの1年ぶりの会合は、そんな、素直な彼と、皮肉な彼との会合の狭間にあった。ワタシの近況に、彼女は目を丸くして驚きつつ、寄り添ってくれる。

 

「なんか地元くんを応援したい気持ち。でもそれって、立場が弱いものを応援したい心境かも」

それでも心はまあまあ揺れた。彼と向き合っていければ、このまま殿から気持ちを離すきっかけになるかもしれないとも思った。それを男の利用だと取る声も頭の中には響いたけれど、それもまた人生だとも思った。

 

会ってみて、感じたものを信じたい。OLちゃんはそれを否定するでもなく、詮索するでもなく、静かに微笑んで、報告待ってるね、と言った。

 

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スコットランド製のツイードのジャンパースカートの上にイタリア製の真っ赤なコートをまとって、ワタシは有楽町に降り立った。直前に代官山の美容院で整えてもらった髪は、毛先をきれいに丸めて揺れていた。

 

どんな都会でも、どんな人混みの中にも、彼を見つけてしまう自分の能力を知ってしまった。飲み屋街の中を闊歩してくる彼に気づきつつ、気づかないふりをして声をかけられるのを待つ。

 

「どうも」

「どうも」

「どうもどうも」

「さっき、タカシマヤにいた?」

「いた」

「見かけた」

 

彼が途中で拾ったであろう友人は、ワタシたちの隣で、ぎこちない会話を見てケラケラと笑った。

 

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対して地元の彼はその頃、ワタシが渡航する日の空港への送迎を申し出てきた。彼は運転が得意で、空港にも慣れているから、送りたいという。

 

これで送らせてしまったら、期待させてしまうと思った。でももし彼が踏み込んでくるのなら、ワタシは受け入れようかとも思っていた。

 

ワタシから彼に踏み込まなかったのは、次の一時帰国が一年後だから。仮に付き合うなんてことになっても、相手の人柄を探りきれていない中での遠距離は、続ける意味を見出しづらい。

 

相手の本気度次第。もしワタシに一生懸命向き合ってくれる人ならば、殿を思う気持ちを鎮めることもできるのかもしれない。そう思いながらも、殿との会合のあとまで、送迎についての返事を焦らしてしまった。

 

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久しぶりに集まる友人たちとの焼き鳥屋での食事の間、殿が緊張のあまりずっとぎこちないまま、調子が出ていないのが手に取るようにわかって、むしろ不憫に思えた。ぎこちないままに、彼はワタシに絡む。ボケて白子や泡盛を勧めてくる際どさ。

 

ワタシもワタシで普通には振舞えていなかったかもしれない。それでも、努めて朗らかに笑って話しかけていたら、一瞬見せた彼のはにかんだ笑顔が、懐かしくて嬉しかった。

 

空になった串を、ワタシがうっかり近くにあった彼のグラスに挿しそうになって、彼は自分の烏龍茶が砂肝味になってしまったと拗ねてみせた。今食べていた串が何であったかなんて、自分でも食べたそばから忘れていくのに。

 

彼の馴染みの店だったのもあって、食べ物のおすすめや注文に抜かりがない。きっちり2時間でお腹を満たすと、彼はこのままカラオケに行くと主張する。でも近くのカラオケ店に行く途中でふたり離脱して、結局同窓会を企画してくれた友人と、彼とワタシの3人でマイクを握ることになる。

 

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What can I else do? と歌ったのはビリー・ジョエルだが、ワタシが今、彼のそばにいられない状況は、自分で選び取ったものである。彼抜きの自分はちっぽけなごみ屑みたいな気がして、何者かになりたくて選んだ道。

 

そばにいられなくて、ごめんね。ずっと好きだったの。I have been loving you. それは決して、I LOVED you ではない。

 

映画『LA LA LAND』のラストに近いシーンで、主人公たちが口にするのは「I’m always gonna love you.」だった。これからもずっと、いつだって愛している。あの映画を最初に観たあとに思ったのは、ワタシもこんなふうに愛せる人を見つけられるんだろうかということ。

 

奇しくも試聴の1週間後に彼とのファーストコンタクトに至ったことに気づいたのは、彼がもうすぐワタシたちが出会った土地を去るという時期に、ひとり鬱々とした気持ちで出かけた寒くて暗い港町からの帰りの電車で『LA LA LAND』2度目の鑑賞をしたときだった。

 

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自分にとって5年ぶりのカラオケ、彼に意地悪されて1曲目を握らされ、だからって初っ端から甲斐よしひろを投入するワタシはどうかしているが、続いて彼がぶち込んだのもジュリーに大瀧詠一、かと思えば『東京ラプソディー』と、趣味がおかしい。

 

彼は1曲目から声量全開、テンションぶち上げで圧倒されてしまった。ていうかこんな一面知らんわ! ワタシはカラオケの経験が乏しく、発声の調子がなかなか出なくて、ほかの2人より歌声が小さいまま。

 

ZARDの『負けないで』をか細く歌うワタシの横で、彼がマイクを握って歌うわけでもないのに口に向けている。マイクの角度を上げろと、暗にワタシに示唆していた。確かに角度を変えたら声を拾えるようになった。なんだその、当事者にしかわからない優しさ。

 

ワタシたちの世代なら誰でも知っている『勇気100%』を入れたら、彼は歌を重ねてくる。ぎこちなさとかはずかしさとか、そんなのすっ飛ばして曲が懐かしかったのだろう。声がハモるのを、ワタシは恥じらってしまう。

 

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あのころから、2年が経つ。2年間というあいだ揺らぐことなく「have been loving him」だったワタシは、彼に交際相手がいると知ったあの日から、試しに自分の暮らしから彼を取り除いてみようとした。

 

彼の誕生日にしていた携帯の暗証番号をまず変えた。彼のSNSを除きまくる習慣をやめた。彼の写真を眺める時間を持たないようにした。それでも、ワタシは未だに携帯のロック解除を間違う。

 

人生において、その場に居合わせる人を、ワタシたちは選ぶことができない。選べるのは、居合わせた人とその後も交流を持つか、否か。

 

ご縁だから。ご縁があればまた巡り会うから。そう言って人はワタシをなぐさめた。でもチャンスって待っているだけじゃ掴めないんじゃなかったの? ご縁を自分からつなぎにいったら、いけないの?

 

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何か彼をはっとさせる曲はないか。一度予約した山下達郎『ドーナツソング』を取り下げて、ワタシは本来なら彼のレパートリーであろう曲に差し替える。あの頃、一緒に聞いた曲。

 

ああ 果てしない 夢を追い続けて

ああ いつの日か 大空駆け巡る

 

クリスタルキングは『大都会』、ワタシに取られて悔しげな顔をした彼は、声をかぶせて曲を奪ってくる。それを見て友人がケラケラと笑っている。これを楽しくなかったと誰が言える? 令和にもなって、昭和の曲を歌い合う、平成のワタシたち。

 

友人の電車の時間が迫るので、彼が最後の曲だと言って『また会う日まで』を入れる。これでもかと熱唱する彼を見ながら、やっぱり楽しい人だと思った。そして残念ながら、この楽しさを、ワタシはあの子に見出せていない。

 

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カラオケの余韻を胸に抱えて、空港への送迎は断ったが、そのまま終わるのも寂しい気がして、同級生の彼を渡航の前の日のランチに誘ってみた。もう一度会えるなら嬉しい、という言葉に、喜びよりは罪悪感が募る。

 

でも、待ち合わせの相談が完全にワタシにお任せなあたりで、少し彼へのモチベーションが下がってしまった。食事の注文も二次会の段取りもスムーズな殿の手腕が記憶に新しかった。

 

結局当日の朝になって場所と時間が確定して、ワタシはその会合の前にひと仕事を、と思って出かけたら、彼からのLINEが入る。「残念なお知らせです」「上司から急な呼び出しを受けました」。

 

そのあともひとしきり謝罪や残念がる言葉が画面に並んだが、正直ワタシはほっとしてしまった。ていうかそんなに残念がるならどこにでも会いに来れば? その程度の気合で遠距離恋愛なんて夢のまた夢。

 

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結局優しくって、結局楽しい殿。実際に会ってみたら、惚れなおしてしまったというのが正しい。あんな歌われちゃったら、惚れちゃって困る。カラオケ店を出て、ぎこちないまま「じゃ」と言って別れる。

 

「じゃ…おみやげありがとう」「いいえ。じゃ」「じゃ」ワタシは髪を翻して立ち去った。駅の階段に消える彼の後ろ姿をそっと振り返る。そういや、彼より先に立ち去ったのは、初めてかもしれない。

 

このぎこちなさ、何かデジャヴだなぁと思ったら、ワタシたちこれ、既に一回やってる。友達に戻ろうという宣告のあとで、やっぱり理解できないと食い下がった日。その2か月後にわだかまりを押し殺して出かけた、冬の日のハンバーガー屋

 

何か笑えた。歴史は繰り返すのか。そういや“失恋”のあと、2年前と同じような出来事がひとつならずいくつも起こったから、再現かよパラレルワールドかよって思っていたけれど、またここからやります? 何だか勝手に、もう一度やれそうな気がしてきてしまう。

 

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まもなく年が明けるその頃、かつての同級生である彼が「あけましておめでとう! 今年もよろしく!」と威勢良く送ってきた。ああ、日本は今、年が明けたのね。時計を見やりながら、ワタシは遠く離れた土地で、まだ大晦日を生きていた。

 

その年最後の晩餐を楽しもうとささやかな夕食を用意していたところだったので、ちびりちびりと味わっていた12月の余韻をむしり取られた気がして、ワタシは興ざめしてしまった。

 

年が明けても彼の夢は覚める様子がない。会話の中に少しだけ無理やり「ワタシの好きなひと」の話をねじ込んだ。冷水をぴしゃりと当てて、ワタシがそこからLINEを返すことはなかった。

 

これで、いいの。新年なんだから、気持ちを新たにワタシではない人を見つけて。ワタシはどうしても、もう少しだけあの人にこだわりたい。別のトークルームを開いて、ワタシは文字を打ち込んだ。