折れた心を抱きしめて【杏子 保健室】
by あしきょう
何を隠そう、ワタシは祖国から遠く離れてアーティスト活動をしている。日々チャンスを掴もうと様々な奮闘をしていて、その中にはオーディションの申し込みやコンクールへの参加、はたまたSNSでのセルフプロデュースも含まれる。
この数年、大きなコンクールへの挑戦ができないでいた。かつて中央の華やかなコンクールで賞を取ることに励んでいた時代もあった。でもどこか突き抜けることもできないでいるワタシの成績は鳴かず飛ばずだった。
果ては、人が「これはあしきょういけるのでは」と言った大会で、大負けした。たぶん実力だけでなく、政治的情勢もあったと思う。でもそれでも誰もが無視できないほどの才能をそこで発揮できれば、勝てたわけで。
自分の至らなさは自覚していた。そこからは、無駄に心を傷めるのはやめようと思った。当たりまくって鍛える人もいるけれど、そんなことをしたらワタシの自尊心は粉々になってしまうと思った。
例えるなら、永遠に就職活動をしている感じだと思ってもらっていい。一度に60社も受ける必要はないけれど、就活が何年も何年も続いている。周りも何年も続けている人ばかりだから、ライバルは多岐にわたる。
しかもこの闘い、一度勝っても「アガり」がない。
オーディションやコンクールを外して活躍に至る人もいる。ほかの道もあると言えばそう。でもそれはそれで人脈がものを言うわけで、なにかのコンテストに参加することは、わかりやすくかつ誰もができることなのだ。
ワタシは数を打たない代わりに、時を待った。自分が準備万全で挑める闘いを待った。そして数年越しにやっと重い腰を上げて挑んだ闘いは、落選の手紙によって終わった。勝ち進んだときのために空けておいたスケジュールが、手帳の余白として虚しく佇む。
何をうつつ抜かしていたのだろう。数を打たないということは、一回一回の落胆も大きいだろうに。
我ながらえらいなと思ったのは、手紙を読み終わった途端に、別の挑戦に着手したこと。そうでもしないと心が持たなかった。何か成し遂げなければいけない使命を作らなければ、表現の世界に戻れなくなる気がした。
でもその晩は友人と夜中までバーで過ごした。
ディスクジョッキーが奏でるけたたましい音楽に体を乗せてばかのように騒ぐ人たちを遠目に、淡々と一杯のジントニックとLサイズのレモネードを飲んだ。あまりに喉が渇いていて、心と体が満足に潤うだけのジントニックを入れたら、破産してしまうと思った。
表現を捨てたらもっと楽に生きられるのに。なんでやめられないんだろう。レモネードを煽るときすら、脳内には次は何を表現するかという考えしかなくて、新しい表現について、アーティストの生きる道について、友人と真剣に語った。
ワタシの需要はどこにあるのだろう。
落選通知を受け取るたびに、生きていることすら否定された気分になる。だから、居場所が欲しくて、存在意義が欲しくて、次のことに手をつけてしまうのだと思う。これは中毒なのか、依存なのか。