杏子とOLの出席簿

20代女子ふたりの背伸びをしない交換日記。

『ラ・ラ・ランド』のかんしょう【杏子 放課後】

by あしきょう

 

人類は映画『ラ・ラ・ランド』に共感した人としない人の2種類に分けることができる。

と大げさにのたまってみたが、実際、この映画はかなり「好きな人」「嫌いな人」の溝が深かったように思う。

 


La La Land (2016 Movie) Official Trailer – 'Dreamers'

 

個人的には好きな映画のひとつで、また繰り返し見たいとも思う作品だ。今日のブログではひとつだけ、どうしても、とりあげて、批判した人に対して反論したい部分がある。

 

女優を目指しオーディションを受け続けるミアが覚悟を持って挑んだ自主公演の一人芝居に、仕事のあとに駆けつけたものの間に合わなかったジャズ・ミュージシャンのセブ。「それで怒ったミアがわからない、仕事優先で当然」といった人がいるのだが、ここに丁寧な反論をしたい。

 

その一人芝居の準備中、ツアーの合間を縫ってサプライズで家に帰り彼がディナーを用意していた夜がある。そのときふたりが口論をしてしまうシーンの会話。あなたの夢見たジャズは、今あなたがやっている音楽とは違うんじゃないか、と問いかけたミアに対して、彼はつい、君が望んだことだと言ってしまう。


彼がまだデビューするより前に、ふたりで赴いたジャズバーでセブはきらいな旧友に再会する。のちほど旧友キースとの関係を問うたミアに、セブはあいつとは音楽の方向性が違うんだと話す。でもキースはセブを新しいプロジェクトに誘いたいと提案を持ちかけていた。

ミアはその提案に対して、成功するならそれはそれでいいじゃないと言った。セブは旧友の誘いに乗れば、社会的な成功と大きなギャランティーが得られる。「ここで僕が稼げれば彼女の夢への道も支えられる。」きっとかれは彼女に黙って、一旦自分の音楽への信念を曲げる覚悟を決めたのだ。この覚悟は「Summer」のシーンの終わりで、彼女の寝顔を見る彼の少し憂いた視線に表れている。

 

でも彼はきっと舞台で光と歓声を浴びながら、自分の本音と建前の折り合いをつけることに忙しかったに違いない。本音を押し殺して、観客の声援に応えていたのだろう。

 

ツアーの一公演を見たミアはきっとそんな彼の葛藤にうっすらと気づいていた、だからこそサプライズの夜にふと問いかけたことだったが、彼にとってその問いを受けたときに“彼女を思ってした我慢”を支えていたつっかえが揺らいでしまったのだ。

 

一方でミアは、彼がやったらいいと強く背中を押してくれたことだから、本当は不安で仕方なかったし成功の見込みもない(と本人が思っていた)自主公演を打つ決心をした。だからもはやそれは、彼が見てくれなかったら意味がないことなのだ。

 

両者の間には「相手のために」と歯を食いしばっていた思いがあった。相手のことを想ってそれぞれの活動に取り組んでいたからこそ踏ん張れたが、同時に自分がどうしてどのように相手を想って、その活動をしているのかということを対話できなかったのが、彼らのおかした失敗だ。

 

「誰かのためならがんばれる」というのは真実だ。でも相手が知らないところで「相手のためにがんばる」ことは、すれ違いを生む。

その活動を、何のためにがんばるのか。その対話を怠ると、相手が望んでないことも引き起こしているかもしれないのに、そのまま突き進んでしまって、ふたりのビジョンはかけ離れていく。

溝が出来てから、あなたのために頑張ったのにと言われても、相手はそれを負担としか捉えられない。余計な御世話になってしまう。

 

相手のために我慢したのに、という言葉が発せられる時、それはだいたい相手のためになっていないことのほうが多い。

 

もし相手がいなかったとしても、自分はその活動を自分自身のために楽しめるだろうか、という問いは、常に手の届くところに置いておりにふれ確認すべきことかもしれない。

相手のために何かを我慢したとして、我慢というものは、自分のためのものでない限り、どうしても見返りを求めたくなってしまう。その我慢の行方を考えたら、それは相手への負荷でしかない。

 

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DJあおい氏のブログをしばしば読んでいるのだが、最近の記事のこの言葉がずっと心に響いている

 

「迎える準備も、別れる準備もできている
それが『人を想う』ということですからね」

djaoi.blog.jp

 

相手に見返りを求めることというのは、相手を自然に還すなどできまい!と思っている証拠であるわけで、リリースできないということは、逃げられても文句が言えない。

リリースできる状態というのは、相手が自分のもとを去りたい場合に、逃げるという形でなく、お互い、特に相手の尊厳を守ったままでお別れができるという状態であるわけで、逃げるという形を相手に取らせてしまうのは、相手のプライドをへし折っている。

 

相手の尊厳を最後まで守れるか。それが愛情なんだと、しみじみ考える。

 

その点で言えば、ラ・ラ・ランドの「Fall」の最後のシーンで、ふたりはお互いの尊厳を守ったまま、それぞれの道を歩むことを決める。

だからこそ、カップルとしての終焉の場面にありながら、ふたりの口から自然に「 I always love you.」などという言葉が出てきたのだろう。

 


La La Land (2016 Movie) Official Clip – “City Of Stars”

 

とはいえ、個人的に歌やダンスの点では「甘いな」と思える点があって、全面的に諸手を挙げてこの映画を賛美できるかというと、そうではない。

 

特に1回目に視聴した1年半前から今までの間に、わたしはフレッド・アステアという人やジーン・ケリーという人を知って、そこからハリウッド黄金期の映画にはまったもので、今となっては見えるものも変わった。

 


Top Hat, White Tie & Tails Fred Astaire, Top Hat

 

俳優は歌って踊れなければいけなかった時代からすると、現代の俳優さんは演技の訓練はしていても、踊りと歌は分業化されてしまったこの時代に、いきなり往年のスターのようにやれと言っても無茶があるというもの。むしろ限られた時間でよくも稽古をつけたと言うべきなんだろうけれど、コンテンツとは言い訳が効かないものなわけで。

とくにこの映画はそういったハリウッドゴールデンエイジへのオマージュが多分にあるからこそ、かえって本物とのレベルの差を浮き彫りにしている気もして、アステアやケリーの華麗な踊りを思うと、ちょっといたたまれない。

 

それでも。わたしはミアとセブの、お互いへのリスペクトを失わなかった愛に、何度でも魅せられてしまう。

 

1回目に見た頃、わたしは鑑賞後に「こんなふうに愛したい人、わたしの人生に現れるんだろうか」とちょっと切なくなったりもした。

不思議かな、実は我が想い人・殿と初めて会話をするのが、その一度目の鑑賞の翌週のことなのであった。当時はまさか、わたしがこんなにも殿を愛してやまない事態が発生するとは、予想せなんだ。

 

そしてわたしにハリウッド黄金期を教えたのも、彼。

 

普段なら、アカデミー賞をとるようないかにも人気で話題の映画はみないワタシが、気が向いて機内での時間づぶしに『LA LA LAND』を選んだのはおそらく、何かの因果なのだろう。

 

アステアとケリーを憧れに自分のスタイルを探し追い求める彼は、先日、新天地に向かった。さみしくないと言えば嘘になるけれど、さみしくてどうにもならないというわけでもなく、ワタシは案外淡々と日常を紡いでいる。

 

さすがに彼が飛行機に乗った日は泣いたけれど、涙を拭いてみたら、それが何の涙なのかわからなくなっていた。だって、きっと、また会える。別にワタシが泣いたって彼は戻れないし、彼がいなくたってワタシの暮らしはただ続く。むしろ次に会えたその日に、すてきな笑顔で会うために、ワタシはワタシの暮らしの充実を図るべきだと思った。彼もきっと、新しい道を歩みながら、そう思っているような気がする。