ヒールの音を響かせて【杏子 出席】
by あしきょう
おさらいをしよう。
最後に彼に会ったのは、昨年秋のこと。ちらりとすれ違ったときで、優しい笑顔で手を振るのがせいぜいだったが、彼もはにかんだように笑ったので印象に残っている。
あれから半年。
ワタシは都内某所で、物陰に隠れて彼の様子を見ていた。
ワタシは先日短い一時帰国をしていて、予定を詰めに詰め込んだ中で、わずかにあった予定と予定の間の時間で、彼がいる場所を訪れた。
彼に会うべくか会わないべくか、帰国の前からうんうん悩んでいた。
ワタシたちが出会った地を彼が離れるときに、ちょっとぎくしゃくしてしまった。無理にでも会いたいとせがんだワタシと、バタバタするのが嫌だしまた日本で会えるでしょ?という彼と。
些細なことかもしれないけれど、ワタシにはそれが大きな不安材料で、しつこかったろうか、嫌われてしまったろうか、と気になって仕方なかった、半年の間。
単に忙しかっただけだろうと思うし、彼が‘あしきょうに嫌われていない’という安心からそうなっているのだろうとはわかっていたけれど、ラインの返事が簡単だったり、インスタにいいねをくれなかったり、ワタシのほうは彼がワタシを好いてくれているという確信がなかった状態でのそれは、なかなか堪えた。
顔を見れば、彼がワタシを好いているか愛想が尽きたかわかる。だから、顔を見るまでは‘好き嫌い’については考えないでおこうと思った。
文字だけでいくらでもコミュニケーションが取れる今の時代に、ワタシたちはその危うさもよく心得ておくべきだと思う。発した本人が思っていないニュアンスで、相手に伝わってしまうことも、ある。
でも、もしとっくに嫌われているとしたら、ここで会いたいと言ってもっと嫌な思いをさせるのではないか。
恋する女は大体ネガティブだ。
会いに行くとしても、一瞬だけ顔を見て去ってこよう、とツンデレプレイを考えていたのだが、いやそんなことするくらいなら会わないでもいいんじゃないかな、とか、心は揺れる。
そのうち、突撃って状況によっては迷惑かもしれないな、と思い直し、簡単にメッセージを入れた。
何日から何日まで日本にいるけれど、ちらっとお会いできたりしません?
それに対して、彼は、悪い、今月は休みなしなんだ!と返してきた。
「うーんこれって、ゆっくりお茶したいとかそういうリクエストに見えるよね〜」
と言ってきたのは、4つ歳下の友人だった。
この返事を受けて、駆け出しの今は会いたくないのかもな、もっとお互い何かを成し遂げてから会いたいよね…! と斜め上の方向に想像をして突撃を諦めていたワタシに、友人は言った。
「会ってきたら? 5秒で帰ってきてよ。そのほうが、会わないより彼があしきょうちゃんのことを‘考える時間’が増えるよ」
不思議ちゃんなその友人は、赤ちゃんのような独特の口調のまま、いつも核心をついたことを言うので、彼女の意見は頼りにしていた。
そして冒頭のワタシに戻る。
友人の作戦をそのままに実行しようと、彼の様子を物陰からうかがっていたのだ。
結局ひとりだとひよったワタシを見かねて、先の彼女と共通の友人が付き添ってきてくれた。彼女は顔が割れていないので、ワタシに先んじて、彼の周辺の様子をそれとなく探って戻ってくる。
今だ! 行っておいでよ。
たくさんの友人の助けと応援を得て、ワタシは今ここにいる。でも最後の最後は自分の勇気を使わないと。
その段階で腰が砕けそうに緊張していたが、ワタシはそんな様子は微塵も見せないように、強い女を作って一歩踏み出した。
自分にまっすぐ近づいてくるヒールの音に、彼はこちらを向いた。ワタシだと気づいた瞬間、彼はにやにやと笑みを浮かべた。
---あ、この人、ワタシのこと好きだな。
そう確信して満足したワタシは、「どうもどうも」といつも通り悠長なあいさつをする彼の声を遮るように、右手に持っていた小さな紙袋を彼の前に突き出す。いきなり顔の前に現れたものを咄嗟に両手で受け取りつつ、彼が慌てているのが見える。
「ご祝儀。じゃあね」
彼の手に袋が安定したのを確認して持ち手の紐を指から離す。ワタシは彼の言葉を待たずに踵を返した。オックスフォードシューズでヒールの音をがつがつと立てながら。
「ええええ!」
普段は落ち着いて冷静な彼が、今までに聞いたことがないくらい、びっくりした声を上げているのを背中に聞く。ワタシはひっそりほくそ笑んだ。
いつもはワタシに対して安心をしているんだろけれど、たまには彼の心、かき乱してやろうじゃないの。
なぜだろう、東京はワタシをSにするのかもしれない。